Feb 27/2005 個人情報保護法と学校の緊急連絡網 〜新聞掲載の「私の視点」について
2月25日金曜日の朝日新聞朝刊(全国版)に、私が投稿した意見が、「opinion」の「私の視点」に掲載されました。この原稿は、年賀状を書くときに起こったことがらに関して、年末休みになった12月29日に書いて投稿したものです。

2月頭に採用の通知がきて、それから何回か、内容について小修正を加え、掲載していただくに至ったものです。このように投稿から掲載までは2ヶ月程度のタイムラグがありましたが、ほとんど原文に近い趣旨で掲載していただくことができました。

「私の視点」は普通、ある領域の専門家が、その専門領域に関して、「なるほど」と思われるような切り口で問題点と解決法などを示すコラムです。今回投稿した内容は、専門領域のの画像診断に関するものではなく、いわば「全くの素人」が無関係の領域について述べたものです。

出しておいてなんですが、ボツは間違いないと思いながらの、ダメもとの仕事でした。非常に幸運なことにacceptされ、本当に感謝しています。ここでは、文字数や写真に制限のある新聞で書けなかったことを追加してアップしたいと思います。

掲載状況

写真をクリックしていただくと、掲載文をお読みいただけます。(個人使用について許可をもらえましたので読める形のPDFでアップします)

■消える住所録 〜 20年後の同窓会は....。
新聞では写真が使えませんでしたので、ここでは写真を使って事例を示しますね。

みなさんは、このようなアルバムをお持ちだと思います。30才以上の方なら、おそらく高校の卒業アルバムの巻末には住所録が記載されている(ことが多い)と思います。

これは、いま20代前半の人の高校卒業アルバムです。最後のほうには、その年の出来事が、写真ニュースの記録の形で掲載されています。左側には、小泉首相の写真がありますから、比較的最近のものであることがわかりますね。巻末の、このような写真記録は、おなじみのものですね。

卒業してふと自分を振り返るとき、あぁ、こんなことが起こっていたんだっけと、なつかしく思い出します。今回のエピソードの校長先生のときはちょっと時代が違うと思いますが、担任の先生のアルバムもきっとこんなふうでしょう。

その次の最後のページは、昔は住所録と相場が決まっていました。でもいまは、ご覧のようなサイン色紙のような白紙のスペースになっています。この次のページは裏表紙です。このような、住所録を掲載しない措置は数年前から起こり、急速に波及したようです。もちろんその目的は、頻回に起こる名簿の悪用で、さまざまな勧誘などを防止するための自衛策として行われてきたようです。

しかし、このような事故防止の措置は、本当に正しいことでしょうか。この措置を講じることで、いままで簡単にできていたことが失われることに、気づく人はいないのでしょうか。たとえば、20年後にさあ同窓会をしようと思ったとき、彼らにはすぐに参照できる資料がありません。学校に問い合わせをすれば保管してくれているかもしれませんが、20年もの間きちんと、安全な形で管理することを、してくれるでしょうか*。最近は少子化に伴い、学校の閉鎖が相次いでいますし、今後もそうでしょう。そのときは本当に、なんにもないのです。

同窓会のような、たまに行う大きな行事でなくても、ちょっと連絡をとろうかな、と思うことはあるはずです。しかしそのとき、このアルバムは何も教えてはくれません。知らない間に経過した時間は、思いのほか高い障壁になってしまっていることでしょう。

* 学校においては、「不要になった個人情報は適切に廃棄」が求められているので、そもそも保管の意思がなくなるかもしれません(「不要」の定義によりますね) リンク[PDF]

■一行だけの、短冊状電話連絡「列」。 その行き着く先は.....。
次にこれを見てください。これは、某中学校の電話連絡網です。生徒の家庭に実際に配られたものですが、普通と違いますね。青い矢印のところには切り取り線が印刷されています。

そうです。この連絡網は、住所が記載されていないだけではなく、切り取りされて、自分が属する一本の連絡ラインだけが配布されているのです。我々保護者には連絡「網」としては認識できず、連絡「列」が与えられているわけです。名前をよく見てもらうと、男の子だけの連絡列であることもわかるでしょう。

この名簿は、可能な限り事故を防止するために考え出されたものだと思います。しかしこのような極端な措置が本当に必要でしょうか。また最終的な安全に、本当に寄与するというエビデンスはあるのでしょうか。たぶんこのほうがいいだろうと誰かがいったから、といったぐらいのエビデンスレベルではないでしょうか。

この連絡網からは、隣のラインにどんな人が並んでいるのか、全く分かりません。同じクラスメートの男女比が何人の学級なのか、どのあたりの人がいるのか分からないというのでは、こどもの友達のことも分かりづらく、親としてはむしろ相当に不安です。

校長先生は、自信に満ちた声で「私たちはこどもの安全を守らないといけないのです」とおっしゃっていました。まさにその通りだと思います。でも、事ここに至ってしまっていることまで正しいと思うのかどうか、ぜひお伺いしたいところです。不安の連鎖が、最初の想定を越えて自律的に増幅していく懸念はないのでしょうか。そこまで担保して措置を講じる必要があるのではないでしょうか。

校長先生は、こどもの安全のことを一生懸命考えてくれていると思います。しかし、学校の先生はこどもが通っている数年間だけを考えれば良いのですが、我々には自分のこどもが20才になったあとの社会まで考える責任があります。先生は、将来の社会構造がどうなるかといったところまで責任を持って措置を講じてくれているわけではありませんし、今、そんな余裕はないと思います。

しかるに、最終責任者の親に相談なく、このような事柄を安易に決定してしまっているというのが、私がもっとも問題だと思う点です。先生は責任を追及されるつらい立場ですが、だからこそこのような極端なことをしても「当然である」と考えてしまいがちな状況にあり、保護者の多くとすこし「ずれて」きてしまってはいないでしょうか。

■住所の非掲載 〜 メリットとデメリットに関する分析と議論は公になされたか。
学校の先生が子供の安全のことを一生懸命考えてくれる。それは本当にありがたいことです。親だって考えてはいますが、仕事をしていますし、やはり頼りになるのは先生です。日ごろの努力には頭が下がりますし、昨今はとくに大変だろうなぁと想像します。私の両親は共に教諭を勤め、現役のときの生徒に対する熱意と愛情は今でも私の記憶に残っており、私の誇りでもあります。兄弟は現役の教諭ですし、私も先生になりたいと熱望したときがありましたから、先生の悪口は言いたくありません。

しかし、今回の措置のような、将来の社会基盤を潜在的に変えてしまうようなことがらは、さまざまな立場と観点から、きちんと議論をした上で実行すべきであると思います。

利潤を求める会社組織においては、メリットとデメリットがあることがらは、まずWG(ワーキンググループ)などを作ってざっくばらんに論議されます。場合によっては、より公平な議論を行うために、賛成派と反対派をあらかじめ任命して仮想議論を行うこともします。そうして、細かい点が明らかになり、メリットが上回るときにこれを行うかどうかの判断を責任者が行います。

私は件の校長に、簡単でもいいから自由に意見を述べるプロセスを経ているかどうかたずねたところ、その質問には答えてはくれませんでした。正直申しまして、すこしずるい感じがしました。これは想像ですが、ほかの質問には相当な自信をもって饒舌にお答えになっていらっしゃいましたから、そのプロセスを経ていれば「もちろんしています」とお答えになったことと感じました。

両親が先生であったのでよく知っているのですが、学校の先生は、きわめて強いヒエラルキー*で構成されています。いきなり校長、教頭と議論する場合、あるいはトップダウンの提案に対する意見を求められたときには、上司と異なった意見をいうことは相当に難しいです。

最終責任者である保護者の私が連絡をとり、「一応保護者の意見も聞いてみてもらえませんか」とかなり丁寧に提案を行っているのに、「いえ、こどもの安全のために、園としてはそれはできません」と門前払いをするような状況なので、同じ集団に属する教員はますます、反駁することが事実上できない状況のように思います(ここでみなさんお気づきだと思うのですが、「園」がいつのまにか、議論なしで「私」と同義になってしまっています。気づかないうちにこういうことが起こりやすいのでトップの人は相当に注意して欲しいです)。

そこで、「私が専門家なんだ。私が管理者なんだ」という考えにしばられず、もうすこしみんなの意見を、アンケートなども用いて、白紙のバックグラウンドで耳を傾けて欲しいと思います。校長あるいは学校として責任をとることができないと考えた学校では、PTAが、直接的な責任者として住所を掲載した連絡網を発行しているところもあるのです。これは責任放棄のようでいて、問答無用方式に比べれば見識だとも思います。

個人情報保護法は、新聞で述べたように「個人情報の有用性に配慮する」ことが第1条の目的に謡われています。ですから、ある日突然、保護者に聞きもせず、綿々と受け継がれてきた有用性をもつ住所情報を消し去るのは、権力の乱用といわれる懸念もあるのではないかな、と思います。

*ヒエラルキー:階層制、階級制。

■一概に禁止するのではなく、啓蒙をしよう。保護者を蔑視しないようにしよう。
住所録があると、悪意のある人から電話がかかってきて、友人の家の住所を教えてしまう事例があるようです。言葉巧みに聞き出そうとするので、ともすると教えてしまう。実際にそういう事例が起こった。だから住所を掲載してはいけないのです。」

先生はそういいます。私はこの意見に対して、もっともだと思う点もあります。たしかに住所掲載しなければこれに関しては安全ですね。

しかし、現時点においてもっと重要なことは、せっかく個人情報保護法ができて、こういった悪徳業者の活動を法的に罰することができるようになるわけですから、ここは逆に、その理念を保護者に対して啓蒙することだと思います。

すなわち、「どんな依頼であっても、友人の住所を伝えてはならない。」「住所は1年後の使用終了時に返してもらいますから、これをコピーして業者に渡してはいけない」ということを、新しい法律をバックボーンとして教えればいいのです。

住所録は「私だけのもの」でなく「私たちのもの」なので、「私たち以外の人のため」に流用してはいけないということを啓蒙しましょう。これを皆で守った上で、住所掲載のもつ、旧来のメリットも活用すればうまくいきます。

もちろん住所掲載は強制ではありません。法の精神に則って、自由に保護者に掲載の有無を選択してもらう必要があります。

「教えてはいけないと啓蒙したって、思わず住所を言ってしまう人はいる」といった不安など、心配な要素はあるでしょう。社会不安そのものです。そう思う人は自分の住所をクラスメートに公開しなければこの問題に関する安全を確保できます。

しかし、これと引き換えに、失うこともあります。

たとえば、もらってうれしいsurpriseの年賀状(くるとは思っていなかったけど、書いてくれた)を受け取る喜びはありません。災害で電話がとまったときに、すぐに安否を調べに来てくれる人の数の期待値は少なくなるかもしれません。また新聞で述べたように地域コミュニケーションが悪くなる懸念があり、潜在的な危険をむしろ増やすと考えます。

そこまで考えるのも面倒くさいから、とりあえず友達とおんなじ意見にしておこうという人もいるでしょう。いろいろと考え、夫婦で話し合って自分のこどもの総合的な安全とアクティビティのバランスをとればよいと思います。


上、長々と意見を述べて失礼をいたしました。どうしてペンをとり、マス・コミュニケーションに訴えなくてはならないとまで考えたのか、少し伝えられたのではないかと思います。

私のところには、賛成をする何人かのひとからメールをいただいています(もちろん反対のひともたくさんいると思います)。そのなかに「私はナンセンス派です」(注:住所「非」掲載はナンセンスだと考えてくれること)と書いてくれているものがあり、本当にうれしく拝読しました。「ヘンだと思ったけれど、なんとなくいえなかった」というメールを下さった人を含めて、このナンセンス派、今のところ過半数ではないかと思っています。

しかし、あと20年経ったら逆に少数派かもしれないと思います。20年後に、同窓会の開催頻度と規模が有意に少なくなった社会、電話連絡網が1行になり、それもそのうちなくなり、携帯メール緊急連絡のみが安全を確保する社会(校長先生は「そうしようと思う」といっていました)、意外な人から年賀状をもらってその後なかよしになることの少ない社会。そういった、相互のつながりが少なくなった社会。それをナンセンスだと思わない人が多数派になったとき、いまや社会がはっきりと危険になったことを認識することになりはしないかと危惧しています。「あのときおかしいといっておけばよかった」」という後悔をしないように、不安の真っ只中でもがいている学校の先生だけにまかせないで、昔から培って来た安全な日本のよりどころ、その、ごく普通だった灯をもう一度つけようではありませんか。

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